img_0-36

彼の世話を唯一している彼の姉から「もう判らなくなっているみたいです」と聞いていた。
「何を話してもあまり反応が無く、惚けてしまって自分が何をしているのか判らなくなっている」、と。
おむつをして、食事も介護の人任せだと...


その日の朝、彼のお姉さんを途中で乗せて、借りていたレンタカーで病院に向かった。
どんな状態の彼と会えるのかは、想像するだけで気が重く暗い気持ちになっていた。
かって、颯爽と100メートルを11秒で走り、高校野球のスターであり、ハンサムでデザイン学校の教師や会社を経営していた男...それが何も判らなくなった惚け老人となっている姿は、正直見たくはなかった。
もし会っても判らなくなっていれば、会いに来るのはこれが最後と決めていた。

面会室に入ると、看護士に支えられて...痩せて小さく乾涸びたような姿になって、彼が椅子に座っていた。
姉さんが彼の横に座り、私達夫婦は正面に座った。
顔を変に歪ませてあらぬ方向を見ていた彼に「お友達がまた面会に来てくれたわよ」と姉さんが言う。
「T!  オレが判るか?」
こちらを向いた...途端に顔をくしゃくしゃに歪ませて、声を上げずに泣き出した。
「わかるのか?」
ただ何度も何度も頷く...
何故だか声は一言も出さずに、ただ表情が笑い顔だか泣き顔だか判らない形に変わる...あげくの果てに引きつった様な形で片目だけ開けて止まってしまった。
「Tさん、その顔じゃおかしいよ」とうちの奥さんが言う。
慌てて普通の顔に戻そうとするが、すぐにシワだらけの顔でくしゃくしゃになってしまう。

彼の方から会話を切り出す事は無かった。
しかし、こちらの言う事は全て判っているようだった。
うちの奥さんが昔の笑い話のような出来事を話しだすと、ヤツも思い出して声もたてずに涙を流して笑っていた。

「3年前に来た時、帰り際にお前は「リハビリして今度はオレが東京に行く」と言ってたのを覚えているか?」
そう聞くとはっきりと頷いた。
「ちゃんとリハビリしているのか?」
そう問いかけた時に、やっと小さくゆっくりだが言葉を話した。
「指、全部、動かせるように、なった...」
(今回彼が声を出して話したのはこれだけだった。)

椅子に座っている事がかなり体力を消耗するらしく、長い時間の面会は出来なかったが...思ったよりは遥かに状態はマシだった。
惚けてはいない...ただ介護施設ではなくて病院に入院と言う形なので、なるべく危険や面倒から遠ざける事が第一になってしまい、日々の刺激が少なくなり過ぎた結果、反応が少なくなっていたんだと思う。
近いうちに介護施設への入所が決まったと言う事で、これからはもう少し色々な事が出来る様になるんじゃないか、と言う話を聞いた。
30分程で「疲れ切ってしまった」、と言う状態になったので彼は看護士に抱えられて、部屋を出て行った。
...最後に少し振り向いて、表情を歪ませた。


ゴルフをする様になる事は、正直絶対無理だろう。
「あなたに送ってもらった道具は、まだ奇麗なまま押し入れに置いてあるのに」と姉さんが言う。
そして、彼の子どもや知人が見舞いに来ないのは、彼の金銭問題にあると言う事を初めて聞いた。
大阪で会社をやって潰した時に、莫大な金額の連帯保証人になっていたとか。
私に金を貸してくれと言った事は無かったが(うちに金が無い事を知っていたからかも)、色々な知り合いから金を借りていた、と言う事も初めて聞いた。


....お前は本当に問題のある男だったんだなあ。
オレにお前を助ける事は出来ないが、いつか一緒にフェアウェイを悪態をつきながら、笑いながらラウンドする事は「やがてジジーになった人生」の楽しみだったんだぞ。

奇跡は、お前が起こせ...オレはそれを待っている。

少しでも状態が良くなれば、必ず俺はまた行くから。