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昔、彼は風のように速かった。
野球のユニフォームで、100メートルを11秒そこそこで走ったと言う。
彼と初めて会った頃のあるスポーツ祭で、リレーのアンカーで出た彼が前を行く5人をぶち抜いた場面を見た事がある。
最後の一人には届かなかったが、前を行く足自慢の男達が「止まっている」ように見えたのに驚いたものだった。

野球が好きで、いくら勧めてもとうとうゴルフを本気で始めなかった、古い親友。
閉鎖病棟に入院しているという事で、連絡がつかないまま時間が過ぎてしまったため、彼の姉に連絡を取ってやっと鹿児島迄見舞いに行って来た。
どのような状態か、顔を見る迄の時間に十分覚悟を決めて、面会。

しかし、杖をついて出て来た彼は、痩せてもいずに穏やかそうな顔をして、はっきりしない話し方で「よう来たな」と...

風のように速かった彼の足は、一歩一歩20センチ程しか前に出ず、杖をついてゆっくりゆっくりと歩くしか出来なくなっていた。
しかし、指は全部ちゃんと動かせる。
話もゆっくりなら、聞き取れるように話せる。
足だけが自由にならないようだ。

病院に外出許可をもらって、レンタカーで彼の行きたいというところに行く事にする。
まず、彼の住んでいた家に行く。
そして昼飯は、彼がバイクで走って見つけたと言う、小さな港近くの穴場の魚料理屋へ。ここの安くて絶品の料理を食べてから、彼の行きたがっていた「俺のパワースポット」と言う山へ...長くなった療養生活の間外出は全然出来なかったとかで、どこも凄く懐かしそうだった。

そして最後に養鶏をやっているという、彼の幼馴染みのところへ...

この幼馴染みのところに彼を連れて行って、話をしている時に...その幼馴染みの奥さんが駆け込んで来て、「今、関東の方で大地震があったって! 津波と火事で大変なんだって!」

3月11日...あの東北大震災だった。

丁度許可された彼の外出時間も終わりそうだったので、病院に戻って彼と別れる。「歩けるようになったら、ゴルフをやろうや」「ああ、治ったらな」
彼の姉は、「頂いたゴルフ道具なら、奇麗なままで物置に全部あるわよ。」
「まず足を鍛えろよ、太さが昔の半分じゃないか」

...彼は笑うだけ。

本当は2〜3日鹿児島にいて、外出許可を貰って毎日どこかへ連れて行こうと思っていたのだが...テレビのニュースで見る関東・東北の映像は凄まじく、翌日の朝急遽以降の予定をキャンセルして鹿児島空港に行って、キャンセル待ちで東京に戻る事にした。
この地震が無ければ、彼ともう少し話も出来たのだけど...残念だった。



見舞いに行って判ったのは、彼がゴルフを始める事は、多分もう無いだろう事。
問題は、彼がなにもかも諦めているように見える事。
子供が、誰も見舞いに来ない事。